芸術工学部のキャンパスと施設
芸術工学部の変遷で触れた通り、2短大統合の検討段階で新キャンパスは、名古屋市立女子短期大学萱場キャンパス(現北千種キャンパス)と想定されており、市立3大学の統合にもその方針が引き継がれた。
しかし、女子短大の必要施設と、芸術工学という新たな学問領域が必要とする施設は大きく異なった。したがって、芸術工学部設立にあたりキャンパスを大幅に更新することがハード面での課題となった。芸術工学部のキャンパス整備を担った鈴木賢一は、この課題を「特徴」と捉え、以下の5点にまとめている。
- 新たな土地における新設キャンパスとは異なり、既存の空間的?建築的ストックを前提としたキャンパス整備計画であること
- 内容的にはそれまでの名古屋市立女子短期大学とは全く学問領域の異なる芸術工学部キャンパスとして整備し直すという点
- 女子短大の廃止と芸術工学部の発足を、空白期間なしで、連続的に移行させるということ
- 当然ながら、初年度入学生を迎え入れて以降学年進行に従ってキャンパス整備を行なうプロセスに特徴があること
- 総合大学ながら都市型の分散キャンパスとなっており、本学部のある北千種キャンパスは単一学部の小規模キャンパスであること
計画において特に課題となったのは1と2で、ソフト/ハード両面で女子短大から芸術工学部へスムーズに移行することが目指された。そこで2つの短期大学の組織と知というソフトの蓄積はスクラップ?アンド?ビルドされるのに対し、芸術工学に適したキャンパスというハードの整備は、既存ストックのリノベーションやコンバージョンを軸に進めることになった。
そもそも女子短大の萱場キャンパスは、昭和45年(1970)9月に菊里からの移転に際して整備され、3学科各2学年の520人の学生の学びの場となっていた(図4)。敷地は熱田台地の北端に位置し、南から北に緩やかに下がる微地形で、面積は25,967.63㎡である。形状は正方形に近く、出来町通(県道215号)に接道する北側に正門が設けられた。菊里キャンパスからの移転は昭和44年(1969)に予算化され、翌年に講義管理棟(鉄筋コンクリート造4階建て、現管理棟)、実験実習棟(同3階建て、現研究棟)、体育館(現存せず、鉄骨造、現スポーツコート、図5)、クラブハウス(現存せず)、福利厚生棟(鉄筋コンクリート造2階建て、現アセンブリーホール)が建設された。昭和55年(1980)には2階に300人収容の大講義室を併設した図書館(鉄筋コンクリート造2階建て)が増設された。このほか、現工房棟の位置に運動場、芸術工学棟の位置にテニスコートがあった。さらに、現シンボルタワーを中心に扇型に広がる広場は、緑豊かな和風の前庭として親しまれていたという(表2、図6)。
図4 名古屋市立女子短期大学の配置図
(名古屋市立女子短期大学 50年誌)
図5 女子短大時代の体育館
図6 前庭の旧状
なお、講義管理棟と実験実習棟、福利厚生棟は、「女子短期大学改築設計図」(昭和44年(1969)3月)から山下寿郎設計事務所名古屋支店、図書館は「女子短大図書館棟新築その他工事設計図」(昭和54年(1979)3月)から石本建築事務所名古屋出張所の設計であることがわかる。山下寿郎設計事務所を主宰していた山下寿郎(1888?1983)は、山形県米沢市出身で東京帝国大学に学んだ建築家である。山下は全国で市役所など多くの公共施設の設計を手がけたほか、昭和43年(1968)には日本で初の超高層ビルである霞ヶ関ビルディングの設計で日本建築学会賞をはじめとする数々の賞を受賞した。また、石本建築事務所は、神戸市出身で東京帝国大学に学んだ建築家?石本喜久治(1894?1963)が設立した建築設計事務所である。石本は日本橋の白木屋を設計し、分離派建築会を主導するなど日本の近代建築史を語る上で避けられない建築家のひとりである。名古屋市立女子短期大学の施設整備のとき石本は鬼籍に入っていたし、山下の関与のほどは判然としないが、一連の施設は彼らの設計思想を受け継いだものといえる。
表2 名古屋市女子短期大学キャンパスの規模
|
面積(㎡) |
校舎用の敷地 |
4,795.70 |
運動場 |
6,236.00 |
テニスコート |
2,440.00 |
その他 |
12,495.93 |
合計 |
25,967.63 |
表注:『365体育投注 芸術工学部 芸術工学研究科 創立10周年記念誌』の掲載情報を調製して作成
芸術工学部のキャンパスを計画するにあたり、名古屋市の担当部局は全国の類似学部の必要施設を調査し、指針をまとめた。そして、昭和45年(1970)竣工した現管理棟や現研究棟などの既存施設は改訂されていた耐震基準を満たさないこと、一部施設に老朽化も認められることを理由に、一期工事として運動場やテニスコートに新たな施設を建設した上で、既存施設を順次取り壊して新学部に相応しい校舎を建設する方針を採った。特に出来町通に面する敷地の北は都市計画上の近隣商業地域にあたるため、「幹線道路からの喧騒からキャンパスを守りつつ、芸術工学部にふさわしいシンボリックな景観を形成しようとする考え方」をもとに、6階以上の新棟建設を計画していた。このように、当初はスクラップ?アンド?ビルドによるキャンパス整備を念頭においていたのである(図7)。
図7 北千種キャンパスの当初計画(創立10周年記念誌)
しかし、この方針は実際の計画立案を担った芸術工学部設立準備委員会の施設整備専門部会によって大きく変更された。きっかけは、設立準備委員会委員長の柳澤が「古くなったが大変バランスの良い名古屋市立女子短期大学の建物をそのまま残して改装し、実験?実習を中心とするデザイン棟と芸術工学棟を新しく建築して統合する計画」を示したことで、スクラップ?アンド?ビルドによる「再開発」の方針は覆った。この方針転換は、女子短大の教授会が「キャンパスについては、市立短大の歴史と伝統を配慮して構想すること」(平成5年(1993)8月2日市立短大教授会議事録)を、統合に応じる最低条件のひとつとしてあげていたことに応えたものであった。
女子短大の歴史と伝統の配慮は施設の利活用にとどまらず、桜の保存にむすびついた。その経緯は社会の衆目を集めたようで、柳澤は「中京地区としても珍しい見事な桜の大木4本を保存し、キャンパスの中心となるように配慮した」といい、瀬口は「桜の大木をどうするかということで、これも多くの関係者の要望で、のこされることになりほっとした。この間の経緯が日刊紙で取り上げられ(た)」と振り返っている。
こうした議論を経て、南東の運動場を敷地に工房棟、南西のテニスコートを敷地にデザイン棟(現芸術工学棟)を新築することとなり、人文社会学部設立による滝子キャンパスの整備計画と共に名古屋市の広報誌に掲載され、市民の知るところとなった。計画の骨子は、芸術工学棟をキャンパスの中心に据え、新設するシンボルタワーと向かい合わせて放射状の広場を形成し、芸術工学棟の中に設ける階段状のアトリュームが広場と連続するという立体的な構成であった。このうち、放射状広場は桜の大木を活かすような配置が検討された。当時のスケッチをみると、シンボルタワーと芸術工学棟のアトリウムをどのように関係づけるか、断面図を用いて検討を重ねたことが窺える(図8)。なかには、名古屋城の金の鯱鉾をモチーフとしたオブジェをシンボルタワーからの軸線上に並べるスケッチもある(図9)。この案は実現を前提としたものではないと思われるが、力強い1本1本の線から新学部設立にかける熱量を感じることができる。そして、平成8年(1996)2月に工房棟、平成10年(1998)2月に芸術工学棟、3月にデザイン広場とシンボルタワー(図10、図11)、平成11年(1999)3月にメインゲートと環境測定棟が完成した。
図8 北千種キャンパス検討時のスケッチ
図9 北千種キャンパス検討時のスケッチ
図10 工事中のデザイン広場
図11 建設中のシンボルタワー
とはいえ、全ての計画が実現した訳ではない。市の広報に掲載されたパースをみると、正門の先には和風庭園をリニューアルしたロータリーがあり、その先は歩車分離がはかられていた。また、各施設は歩道とペディストリアン?デッキでむすばれていた(図12、図13)。管理棟と研究棟には渡り廊下とエレベータが増設されたが、芸術工学棟や工場とは接続されていない(図14)。よって、移動が不便なだけでなく、一体感を欠いた印象も拭えない。
当初計画が中途にとどまっているのは、滝子キャンパスも同様であるし、そもそも昭和25年(1950)に365体育投注が発足した際、滝子、桜山、田辺通に分散するキャンパスの連携をどのように図るかが課題として指摘されていたが未だ解決されない。積極的に捉えれば、分散キャンパスは地域連携の拠点や災害時の避難場所として役立つし、新型コロナ禍で急速に進むオンライン化で課題の一端は解決された。しかし、北千種はもちろん、桜山と滝子のキャンパスを含めて老朽化が著しい施設は多く、今後どのように更新していくのか、実現可能な計画の策定を急がなければならない。
図12 北千種キャンパスのイメージ
図13 北千種キャンパスの配置図(創立10周年記念誌)
図14 工事中の渡り廊下